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今では「水道」が各家庭にあるのは当たり前になってます。 じゃあ、水道がどうやって普及してきたのか? これをご存知の方はすくないはず・・・ という訳で水道業界に長年携わってきた、元東京都技能検定委員をされていた「岸 泰通さん」にお話しを聞かせていただきました!!
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ここからは「リフォナビ」独自に調べてみました!
東京都限定の話しになってしまいますが、「東京の水」はどうやって普及してきたのか? そーいえば小学生のころに社会見学で調べたような・・・ と思いつつ色々調べてきました! |
東京の「水」といえばこの兄弟!!
東京の「水」を語るうえで絶対にはずせないのが、この「玉川兄弟」という人物たちです。 この人たちが何をしたのか?
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 玉川兄弟像 |
時は遡る事、徳川幕府の頃。
徳川幕府が永く続き、安定してくると江戸の人口はふえ、水不足が心配になりました。 そこで、幕府は玉川兄弟(玉川庄右衛門、玉川清右衛門)に、多摩川から水道を引くことを命じました。兄弟は、それまでも幕府が行う土木工事などを担当してきましたが、これほどの大きな工事は初めてでした。
水道を作るには、川を掘るという土木の知識が必要なことはもちろんですが、水を流すためには、多摩川と江戸の標高がどれほどあるのか、どのくらいの傾斜で川を作ればよいのか、どのような方法で傾斜を測るか、といった測量の知識が必要になります。 |
 羽村堰 |
また、計画を立てるためには地図を作る知識と、地図を読む知識も必要だったに違いありません。兄弟は、測量や地図の勉強をいつどこでしたのでしょうか、実のところ、ここは良く分かっていません。 |
多摩川の取り入れ口の高さと江戸の高さの差は、わずか100mほどでしたから、100m進んで、25cmほど下がる正確な川を作らなければなりませんでした。玉川兄弟は、このような正確な測量を夜中にちょうちんや火をつけた線香の束をともし、それを見とおして行ったといわれています。 こうした測量での苦心(くしん)のほか、土木工事でも何度も困難な目に会いましたが、わずか八か月で玉川上水と、そこから江戸の町々に水を引く水道工事を完成させました。
これが今の、「玉川上水」と呼ばれる施設です。
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 村山貯水池・取水塔 |
現在は上記の「羽村堰」でとられた水を、この多摩湖、狭山湖に流してこの取水塔から浄水場へ送られ、各家庭に送られています。
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